【赤穂城】

大坂夏の陣の後、本格築城された城郭である。江戸時代には、赤穂藩の藩庁が置かれた。縄張りは変形輪郭式。
本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれている。銃砲撃戦を意識した設計となって
おり、十字砲火が可能なように稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられている。
縄張りは赤穂浅野氏初代・浅野長直の時代、浅野氏の軍師で甲州流軍学者の近藤三郎左衛門正純によってなされた。
長直は築城中、山鹿素行を招聘し、縄張りについて意見を聞いた。
これにより二の丸周辺の手直しがされた。それまでは一重の堀に囲まれた掻上城(かきあげじょう)という質素な
ものであった。
赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。5層天守の造営も計画されていたが江戸
幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天守台のみが今日に残っている。
市内を流れる千種川より上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水されていた。
日本三大上水道の一つに数えられている。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。