【広島城】

毛利氏の居城・吉田郡山城は何度も敵勢を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に
位置する為、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適した位置になった。
しかし、天正末年になって天下が安定するようになると、当時中国地方9ヶ国120万石の太守となった毛利氏には
政務所としても手狭なものとなり始めた。
また吉田郡山城は山間部にあり、商業の中心地としては不適切であった事から、海上交易路である瀬戸内海の水運
が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ出ようという意思もあった。
築城は川の中州の埋め立てと、堀の浚渫が初段の大工事となった。城の構造は大坂城を参考とし、近世城郭として
築城された。縄張りは聚楽第を範を取っていると言われる。軟弱な三角州地盤に築城した為、石垣の重量を分散
させる工夫がなされている。この築城は同時期に進行しつつあった豊臣秀吉の朝鮮出兵の後方基地としての期待も
あり、秀吉は築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣し、自らも建設中に広島城に滞在したという話も残る。
完成当初は当時の大坂城に匹敵するような規模の城だったと言われるが、福島正則の改築以前にどのような姿であった
かは詳しくわかっていない。
福島正則の時代に、それまで二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を、城下の南側を通るように付け替える
とともに雲石街道を整備したと言われ、町人町が拡大した。しかし、幕府に無届けで修築した為、それを咎められ、
二段にしてあった本丸の上段石垣を破却している。これは現在でも確認できる。
藩政時代の広島城は内堀・中堀・外堀のある約1km四方の広大な城であったが、明治維新後には1911年(明治44年)
に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になった。
広島市内の「八丁堀」、「薬研堀」などの地名は堀があった名残である。八丁堀は約8丁(約880m)あった東側の
外堀にちなむ。また市内の庭園「縮景園」は、元々は城内だった。外堀は南側では現在の相生通りの南半を東西に
走っており、現在の紙屋町西交差点あたりに大手門があった。北端は現在の城北通りであり、外堀の水は三篠橋付近
の旧太田川から引いていた。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。