【北ノ庄城】

北ノ庄城はどこに存在していたかはっきりしておらず、江戸時代に築城された「福井城」の方が地元では有名で
ある。

☆歴史☆
織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、明智光秀が北ノ庄城に入城し戦後処理にあたったと記録される
が、当時この地に城が存在したかは判然としない。存在したとしても、簡易な前線基地か砦程度の物であったと
推定されている。
朝倉氏の滅亡後、越前国を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、
天正3年(1575年)に自らの縄張りによってを築城を開始する。同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、
妻お市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが灰燼に帰することになる。
とはいえ、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っており、何らかの施設が再建された可能性
はある。
城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、
天守は七層(一説には九層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。
柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したとき
の記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により
一層城の美観を増した」とある。
この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の石垣は
笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城も天守の瓦を笏谷石で
葺いている。これは寒冷地では瓦を使用すると凍結などにより瓦が割れてしまうことなどを理由とする。
また、町の規模が安土の2倍ほどもある事、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。
次に、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、
「城中に石蔵を高く築き、天守が九層」であった旨の記載があり、当時の城の大規模であったことが知れる。
平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と
思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
1601年より(旧)北ノ庄城の跡地に、新たに(新)北ノ庄城が築城されたため、現在では(旧)北ノ庄城の遺構を
見る事は出来ない。