【小倉城】

〜歴史〜

* 最初の築城年代は明らかではないが文永年間(1264年-1274年)に緒方大膳亮帷重が居城した、というのが
 初見とされる。
* 1330年(元徳2年)には黒崎土佐守景経が居城、のち大内氏の持城となる。
* 1442年(嘉吉2年)に太宰少弐頼冬が攻略をかけ、文明年間(1469年-1486年)には菊池氏が居城とした。
* 1587年(天正15年)、豊臣秀吉の家臣であった毛利勝信が豊前小倉6万石(一説に10万石)を与えられ、
 小倉城に入城。この当時の城の様子については、記録がなく詳しく分かっていない。なお、子の毛利勝永
 にも豊前国に1万石(4万石とも)を与えられ、この際に秀吉の計らいによって、元の姓である森に変えて
 中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となる。
* 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの論功行賞で細川忠興が豊前国を領する。
 初め中津城に入城するが、1602年から7年かけて40万石(正確には39万9千石)の大名の居城として、毛利氏の
 小倉城を改築し、そこに居城した。なおこの時城下町も整備され紫川で東西に二分し、西は主として武侍町、
 東は町人や下級武士達の町とした。
* 1632年(寛永9年)、細川家が肥後国に移ると、譜代大名として播磨から小笠原忠真が15万石を領し、小倉城に
 入る。以後、小倉藩主の居城となる。
* 1837年(天保8年)、本丸御殿、天守を焼失し、それ以後天守は再建されず。
* 1863年(文久3年)4月、海防強化のため、城の外郭で海からの入口に当たる紫川河口両岸に砲台を建設。
* 1866年(慶応2年)、第二次長州征討で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を
 決める。同年8月1日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、幼少の藩主は熊本藩に退避。
 家老以下の藩首脳は香春で指揮を執った。
* 1867年(慶応3年)、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城を含む企救郡は長州藩の預りとされ、
 引き続き占領されたままとなったため、以後も藩庁は香春に置かれ、お茶屋(藩主巡察時の滞在施設)を中心に
 付近の町人宅をも借り上げて設置された。


2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。