【小牧山城】

小牧山築城以前の歴史は明確ではない。しかし、発掘結果等から、寺院などの宗教関係の施設が存在していたと
考えられている。また間々観音に残る縁起(寺院の沿革)では、「元は小牧山に寺院(間々観音)があったが、
織田信長の命によって、現在の地に移設された」とある。

織田信長は、桶狭間の戦いに勝利したのち、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを
開始した。永禄5年1月15日には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅
した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を
前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山で
あった。早速、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山城
に移した。

この小牧山移転にはあるエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中で囁かれ、誰もが不服
に思っていた。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山に城を築き移転すると布告した。
果然清須城内は反対一色となった。信長は反対意見が十分に出た頃を見計らい、家中の意見を吟味した結果として、
移転先を小牧山に変更することを申し渡した。すると、今度はほとんど反対意見もなく、皆小牧山への移転に同意
したという。この計略は人間心理を巧みに利用したものであり、似たようなエピソードが古今東西に存在するため
真偽は不明であるが、応永年間以来、約150年間に渡って守護所として栄えた清須から他の地へ移ることへの抵抗
が大きかったことが推測される。

なお、平成22年(2010年)の発掘調査により、本丸部分から信長の家臣、佐久間信盛を指す可能性の高い「佐久間」
と墨書された石垣の石材が出土した。信長が家臣を競わせ築城を進めさせたとも考えられている。従来小牧山城は、
後述のように4年間しか使用されなかったため、美濃攻略のための土塁による仮住まいの城と考えられていたが、
2004年からの試掘調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明し、当初信長は長期滞在も
考えていた可能性が指摘されている

信長が築いた小牧山城の構造は、山全体(約21ha)を城域とし、多数の曲輪と重臣の館から成っていたということが
わかっている。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。
移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻を繰り返し、ついに永禄10年8月15日、美濃稲葉山城は落城、
信長は稲葉山城を岐阜城と改めて移住した。これにより、小牧山城は約4年間の役目を終え、廃城となった。


天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて
本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修
が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可
が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利
の一翼を担ったことになる。

山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。元和9年(1623年)には、尾張
徳川家が上街道を整備する為、山の南側にあった町を東に移転させた(移転先に作られたのが、小牧宿である)。
明治維新後も尾張徳川家の所有地であったが、昭和2年(1927年)に、時の当主徳川義親によって国に寄付された。
同年、国の史跡に指定される。現在でも山中の各所に石垣、土塁、空堀、井戸跡、曲輪、虎口や若干の石垣などが
残り、往時を偲ぶことができる。


現在ある小牧城の建物は、名古屋市に住んでいた実業家の平松茂が、自身の財産を投じて建設し、小牧市に寄贈
したものである。西本願寺の「飛雲閣」(伝聚楽第の遺構)をモデルとしている。中世から現代にかけての小牧市
の歴史的資料が各階に展示されているほか、最上階は展望施設となっており、
夜間にはライトアップが行なわれて
いる。


2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。