【小諸城】

〜 概要 〜

長享元年(1487年)に大井光忠によって築城されたと考えられている。
戦国時代、武田信玄の東信州経営のために現在の縄張とされた。現在残っている城跡の元になったものは信玄の
軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられているが、根拠となる史料はない。
安土桃山時代から江戸時代にかけて、石垣を構築した近世城郭に改修された。現在のような構えとなったのは仙石
秀久の改修によるもので、三重天守もその頃に建てられたものであった。
天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていたが寛永3年(1626年)に落雷によって焼失している。
城郭は城下町である市街地よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができ、このため穴城とも鍋蓋
城ともいう別称がある。また、浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、西側の千曲川の断崖も天然
の防御陣として利用されている。

〜 歴史・沿革 〜

天文23年(1554年)に竣工し、武田信豊が入城したとされるが、誤りであることが指摘される。
武田勝頼の時代には御一門衆の下曾根浄喜が城代を務めており、天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の甲斐
侵攻に際しては小諸城に逃れてきた信豊を浄喜が打ち取り首を織田信長に進上したが、浄喜も誅殺されたという。
武田氏が滅んだ後は滝川一益、ついで北条氏が所領し、後に徳川氏に引き渡された。その後小田原征伐での功労が
認められ5万石で大名に再び列せられた仙石秀久が天正18年(1590年)に入城した。秀久は関ヶ原の戦いでは東軍
についたが、その後も元和8年(1622年)に2代仙石忠政が上田城へ転封となるまで居城した。
江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、その後は松平氏、青山氏、酒井氏などが封じられたが、元禄15年(1702年)
に牧野康重が移封された後は国替えは行われず、牧野氏10代牧野康済の時に明治時代を迎えた。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。