【忍城】

=== 戦国時代・安土桃山時代 ===

1478年(文明10年)頃、地元の豪族であった成田正等・成田顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家
に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。
翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰・太田道灌の仲介によって和解して
以後、成田氏が領有した。河越夜戦後、後北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。
1553年(天文22年)に北条氏康は忍城を攻めるものの、攻略に失敗している。
1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると、成田氏はこれに恭順した。
1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の
戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲
されるが、持ちこたえている。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。従兄弟の成田長親
を城代とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもった。
豊臣秀吉の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家らも加わった。
三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを
決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設した。
しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり城側は大いに面目を施す
ことになった。このことが、'''忍の浮き城'''という別名の由来となった。

=== 江戸時代 ===

徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁となった。
1639年(寛永16年)に老中・阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われ、往事の縄張りは1702年(元禄15年)
頃に完成したと考えられている。
1823年(文政6年)に阿部氏が白河藩に移り、桑名藩より松平忠堯(奥平松平氏)が入った。
忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路として
の機能を兼ね備えて繁栄する。また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。