【大多喜城】

大永元年(1521年)に真里谷信清が築いたとされる。長年この城を同町内の根古谷城をこれに充て、今日の大多喜
城を築いたのは徳川家康によって大多喜城主に任じられた本多忠勝と考えられてきたが、近年の発掘によって現在
の城の地下に大規模な城の遺構が遺されている事が明らかとされて、完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山で
ある栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、
現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。
ところが、信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に里見氏の武将正木時茂によって城を奪われて、
以後時茂・正木信茂・正木憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。
だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣された
という。
天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その
配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事
を行い、三層四階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城
である。
以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、大多喜藩の規模縮小に伴い、山頂の
天守なども荒廃。
天保13年には天守が焼失し、天守の代わりに二層の「神殿」と称する建築を天保15年8月に立てたが、大多喜藩
が財政難に苦しんでいた為、粗末な建築物であったと、この城を研究した渡辺包夫は考えている。
天守焼失に関しては、昭和48年の学習院大学の発掘調査でも大量の焼土が発見されたことで裏づけられている。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。