【猿橋】

〜 概要 〜

江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する
刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、上流と下流にそれぞれ山梨県道505号小和田猿橋線と国道20号で同名の新
猿橋がある。長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。

〜 歴史 〜

猿橋については、7世紀に渡来人の志羅呼が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説が
ある。鎌倉時代には既に存在していたらしいが、その起源ははっきりとしていない。
古くは吊り橋だったとする推測もあり、刎橋になった時期は不明である。
1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋で
ある。
この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。
甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、歌川広重は天保12年(1841年)に甲府町人から甲府道祖神
祭りの幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れた際にスケッチを行い(『甲州日記』所載)、後に大型錦絵「甲陽猿橋図」
を手がけている。また荻生徂徠など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成しており、明治期には富岡鉄斎が「甲斐
猿橋図」(大木コレクション)を描いている。
1932年(昭和7年)に国の名勝に指定された。1934年に上流に新猿橋が造られ、国道(当時は国道8号、現在は山梨
県道505号)はそちらを通るようになった。1973年(昭和48年)には別の新猿橋が下流に造られ、国道20号が通る
ようになった。これら二つは今も並存する。
古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和
59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢駅-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から
橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)|梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川橋梁(中央本線)
で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。
この橋の近くでは室町時代の1426年(応永33年)に鎌倉公方足利持氏配下の一色時家と甲斐の国人武田信長が交戦、
一色が勝利して武田信長を鎌倉へ捕虜として連れ去ったとされる(猿橋の戦い)。