【高崎城】

高崎城の地には古くは和田城と呼ばれる城があった。和田城の創建は古く、平安時代末期に遡り、この地の豪族
和田義信が築城したと言われる。

室町時代になり関東管領の支配するところとなると、和田氏は管領の上杉氏に帰属した。永禄4年(1561年)
当時の城主和田業繁は帰属していた上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄についた。和田城は上杉勢の度々の侵攻に
よく耐えた。その子、和田信業は、北条氏に属した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠城した。和田城の留守を預かる信繁の子・
兼業は、前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、4月19日に落城し、廃城となった。

小田原征伐の後、関東には徳川家康が入部した。家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた井伊直政は、
慶長2年(1597年)家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築いた。
この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為である。
翌、慶長3年(1598年)直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。
直政は入城に際し、当地を「高崎」(箕輪城下に直政が創建した恵徳寺の開山龍山詠譚和尚の「松は枯れる
ことがあるが、高さには限りがない」との進言により)と名付けたとされている。箕輪より町家や社寺を
移して城下町を築いた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となった。その後は、諏訪氏、酒井氏、
戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が
目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎えた。最後の藩主は輝声(てるな)である。 松平(長沢・大河内家)
は歴代幕府要職に就くものが多かった。

元和5年(1619年)に入城した安藤重信は城の改修に着手した。
以後、3代77年間をかけて大改修され近代城郭が整備された。 寛永10年(1633年)には、実兄である3代将軍
徳川家光の命により、この城に幽閉されていた徳川忠長が当城で自裁した。

明治6年(1873年)廃城令により存城となり、第3師官官内分営所が置かれた。以後建造物は移築もしくは破却
され、跡地の大半は歩兵第15連隊の駐屯地として使用された。