【増上寺】

9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚に建立した光明寺が増上寺の前身だという。
その後、室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に
改宗し、寺号も増上寺と改めた。この聖聡が、実質上の開基といえる。

開基聖聡の弟子には、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏や、松平氏宗家第四代松平親忠開基
の大恩寺開山了暁慶善がおり、また松平親忠の第四子で、浄土宗総本山知恩院25世の超誉存牛や、徳川将軍家
菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底はいずれも聖聡の孫弟子であり、中世から松平氏や徳川氏とのつながりが深かった

中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川
家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけ
だったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康に
よって現在地の芝へ移された。

風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。

また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。
なお、延宝8年(1680年)6月26日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝
が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。

また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならない
ところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金
になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。畳替えの件が史実であるかは不明。
なお、長矩は内藤忠勝の甥である。

明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。
のち明治7年(1874年)1月1日排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響に
より規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。